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  • 岡村友章

茶粥と暮らし


お茶というと、

優雅で、上品…なんてイメージがついてまわるのですが…

そんな側面だけではない話をご紹介します。

以下は谷坂智佳子さんの著作、『自家用茶の民俗』(大河書房、2004年)から、

135-136ページを引用させて頂いたものです。

この場を借りて、フィルードワークをもとに

素晴らしい暮らしの記録を集めておられる谷坂さんに、お礼を申し上げたいと思います。

---(以下引用)

和歌山県西牟婁郡中辺路町のTさん(明治43年生まれ)は…

(中略)

12歳になったとき、家の事情で九州・五木村に炭焼きに行っていた叔父さんのところに

一家で移り住んだ。

五木村でも家の飲み分の茶は釜炒りでつくった。

五木村の茶は苦く、茶粥には不向きであったが、我慢して食べた。

茶粥にはやはり、古葉が入っている茶のほうがおいしい。

家にあまり茶がなかったので、近所の人の家で摘ませてもらった。

父(明治12年生まれ)は、茶粥のためには古葉を摘みたかったが、

それを村人に見られると恥ずかしかったのか、籠の底には古葉をたくさん摘んでおいて、

新芽をその上に被せて、新芽ばかりを摘んでいるように見せかけて、家で一緒に笑った。

父との遠い思い出である。

五木村でも三食とも茶粥(塩なし)を食べていた。ヒエ・アワ・アズキをよく入れて食べた。

叔父さんも茶粥を食べていたと思う。

数年後、和歌山に帰ってきて、昭和のはじめに結婚。中辺路町に来た。

しかし、それからも苦労は続き、戦後は炭焼きをして渡り歩く生活が数年あった。

炭焼き場の近くに小屋を建てて住み、夫婦で日々、炭焼きに精を出した。

そこでも毎食茶粥であった。

黒炭をつくっていて、木尻は茶粥を炊くときの焚き付けにした。

そのような苦労・努力の甲斐あって、自分の家をもつことができるようになった。

昭和40年ごろ、朝は子どもの弁当のためにごはんを炊くようになったので、

茶粥は夜だけ食べるようになった。

昭和55年ごろまで、羽釜でごはんや茶粥を炊いていたが、

その後、炊飯器を買ったので、クド(岡村注: かまどのこと)の役目もその頃には終わった。

今は1升くらいの水に、2合の生米をいれて作る茶粥も、

昔は混ぜ物のなかから米を探すのが大変なくらいであった。

戦時中には麦ばかりの茶粥も食べた。

茶粥はメハリズシと一緒に食べるとおいしい。

さらさらした茶粥が好きな人は、炊きたてのものを夏でも冬でも

鍋ごと水桶に5分ほどつけた。

そのようなさらっとした茶粥は、お酒が好きな人に好まれるようだ。

今でも朝にはよく茶粥を食べる。

茶粥は、生活と切っても切れない大事な食べ物であった。

---(引用おわり)

父親と移住先で古葉を摘んだ話、

苦労しながら茶粥ばかり食べた話…

現代、わたしたちの多くが抱くお茶のイメージとはかけ離れつつも、

いまよりもずっとずっと、暮らしになじんでいるお茶の姿が語られています。

おかむらはこのエピソードを読み、茶粥を家でつくってもらい、食べました。

奈良の焙じ番茶を不織布にいれて、生米といっしょにお粥にしたのです。

とてもおいしくておいしくて、あっさりとした口当たりなので

いくらでも食べられるんです。

もうひとつ気が付いたこと。

茶粥のあっさりした味わいのお陰で、そのほかのおかずの味のコントラストが、

否応なくはっきりと浮かび上がったのです。

「みそ汁の塩気がおいしいなあ」

「この煮物の醤油も、おいしいなあ」

そんな感じ。食卓が豊かになりました。

ゆっくり味わうだけが、お茶と人の関わりではないと知ったのでした。