© 2015-2020 by にほんちゃギャラリーおかむら

検索
  • 岡村友章

人口知能の時代と日本茶 ② 茶農家とお茶屋の仕事


前回の記事では、Standart Japan - Issue 9 の記事「人口知能の時代にコーヒー焙煎家は必要か?」(大山崎 COFFEE ROASTERS 中村佳太さん)の内容をまとめました。

-----

焙煎という行為、そして飲むという行為の双方から検討すると、本質的に人の焙煎とAIの焙煎は異なっているものだということがわかる。だからコーヒー焙煎家は、ただ機械的に操作するだけではない限り、これからも必要だ。そのほうが人を笑顔にするのだから。

-----

こうした中村さんの着想をもとに、2つの問いについて思いました。

1. 人工知能の時代に、人が製茶することは必要か?

2. 人口知能の時代に、お茶屋は必要か?

1. 人工知能の時代に、人が製茶することは必要か?

「コーヒー焙煎家」を「人の手による製茶」に置き換えて考えてみましょう。

これまでに各地の製造現場をいくつも見てきましたが、とりわけ規模の小さな加工場では使用されている機械の多くが古く、そもそも自動化されている工程はほとんどないのが現状です。生産者は機械に付きっきりで複数のロットを同時に管理します。

温度設定などの細やかなコツ(企業秘密)を、チョークで機械に書き込んでおり、「これはブログで写らないようにしてね」なんて言われることもしばし。

またある生産者には、「もし補助金が出るとすれば、これらの機械を多機能な最新機種に更新したいと思いますか?」と聞いたことがあります。その答えは、「いいえ。むしろ人の五感が生きるシンプルな機械でなければ、お茶づくりの感覚は養えません」でした。

一定以上の規模で操業しているところであれば、小規模生産者に比べてひとつひとつの工程に対するケアはざっくりとしている印象です。タブレット端末で多数の製茶機械の設定管理を行っている農家もいますが、それでもなお人口知能が自ら判断を行い、即応的に各工程の調整をするわけではありません。

中村さんの記事にある「ゲシュタルト」の基本概念、つまり「部分の総和としてとらえられない合体構造に備わっている、特有の全体的構造」は、小・中規模の茶工場においてその魅力を語るうえで外すことのできない考え方でしょう。

(お茶のゲシュタルト…例えば1杯のオーソドックスな焙じ茶を前にすれば、それが「煎茶でも、烏龍茶でも、紅茶でもない。焙じ茶である」と直感的に判断することができます。この直感は、香り、味わい、器、合わせる食べ物に空間など、多数の判断基準を個別に点検するのではなく、そのざっくりとしたまとまりをもとになされるものです)

私が取引をさせていただいている茶農家では、彼らの経験と勘に依存する製茶工程が非常に多く、ほとんど全ての工程においてそうだといっても過言ではありません。さらに特徴的な点として「製茶する人が、そもそも原料の農家でもある」ことが挙げられます。

そう、栽培までもゲシュタルトに組み込んで考えなければならないのです。こうなってくると、畑と製茶工場を与えられた人口知能が、人の感覚と同じようにしてお茶を仕上げられるとは現段階では到底有り得ないでしょう。

仮に世界中のデータを記憶した人工知能がお茶づくりにあたったとしても、私はそのデータの大きさが皮肉にも独創的お茶づくりの障壁になると考えます。

要するに規模の小さな茶農家たちは、当然ながら無制限にインプットのできる機械ではありません。ひとりの人間であるということ、そして「家にある機械でどうにかしなければならない」ということ、それぞれが制約となって、独創的なものを生み出しているのです。

だからこそ、彼らのお茶に好意的なお客さんが存在するはず。人口知能ではなく、生身の人間が仕上げた作品であるから、「おいしい」という感覚は増幅するのではないでしょうか。この点は中村さんも哲学思想を引用しながら触れているところです。

しかし、お茶は世界中で消費されている作物。その一方で国内では担い手が不足しており、商業茶園の営農は大規模化が進んでいます。今後は需要に応えていくひとつの手段として人口知能に活躍の場が与えられることは疑いようもないことです。

また、零細農家のなかには飛びぬけて製造技術が高い生産者も一定存在します。決してマニュアル化できない彼らのユニークな仕事を、仮に人工知能が学習し実践することが叶うとすれば…。その農家が継承者を持たず、居なくなってしまったときに、学習済の人口知能は一定の活躍をするでしょう。

「人ではなく機械である」ことが無意識的に人の「おいしさ」の認知に影響するでしょうが、ある程度補うことができるはずです。その農家についての記録・伝聞や視聴覚資料を用意することで肉付けするのです。

こうすることで出来上がるお茶は、「もう居ない人なのに、まるでその人が作ったような感じがする」という、生前にはなかった新しく懐古的な魅力を放ちながら世に登場するのかもしれません。「昔ながら」の担い手が人工知能になる可能性だってあるのではないでしょうか。

もっとも、私はできればそうとはならず、生身の人間が継承していくことを切に願います。やはり人と人口知能の行いには、中村さんのいうように本質的な違いがあるから、同じ土俵で考えるのには無理があるのかもしれません。

ということで、「人口知能の時代においても、人の製造するお茶は必要だ」と考えます。一方、個人単位で培われている製造技術の一端を残し次へバトンを渡すための「つなぎ」としてなら、人工知能は多大な貢献をするかもしれません。

2. 人口知能の時代に、お茶屋は必要か?

これは私自身の存在を問う質問であり、「必要だ」と言えなければ大変なことになります。でも落ち着いて考えてみましょう。製造には携わらない小売業の方の多くが一考に値する問いではないでしょうか。

私がしていることは、大まかにいってこんなところです。

1. 現場

 茶農家に会いに行く。ときに農作業や製茶を一緒にやりながら、彼らの話を聴く。

2. 仕入れ

 お茶を直接仕入れて私のブランド名のもと個包装。

3. 販売

 対面販売・卸販売・オンラインストア。

さて、これらは人工知能にとって替わることができるのでしょうか。「できる」のならば中村さんも記事でいうように、顧客との交流やマーケティングに注力するという選択肢もあるのでしょう。

まず「1. 現場」について。

人口知能は人間ではありませんから、そもそも現場へ行くということは出来ません。ただし生身の人間が現場で収集した情報をインプットされた人工知能が、雄弁にも「まるで行ってきたかのように」語ることもいつか出来るようになるかもしれません。

このとき「私という文脈のある人間」が現場を見て体験してきたうえで語ることと、人口知能の語りは、含まれる事実が同じであってもやはり異なるとみるのが自然です。私自身が、人口知能には任せられないという自負を持ち、かつお客さまが単に茶とお金を交換すること以上の楽しみをお買い物に見出す限りは、「私」が現場に行き、情報を集め、感情にくるんで提供することが必須だと考えます。この場合の等価交換とは、お金と引き換えにして、物質としての茶葉だけでなく、そこに文脈を着せてあげることで成り立つのでしょう。

逆に言えば、これが担保できないときにはお茶屋の立場が揺らいでしまいます。このことはお茶屋のみならず、全国に大型商業施設が展開し、小さな商店の存続を難しくしている状況を、店側・購入者側の両方から説明できるのかもしれませんね。

いつか人間と人口知能の境界線があやふやな、サイエンス・フィクションみたいな世の中がやってきたなら…どうなるのでしょうか。この問題は別な機会に譲ったほうがよさそうですが、そのときは課題映画としてスピルバーグ監督の「A.I.」を改めて観るべきかもしれません!

次に「2. 仕入れ」について。

単に在庫を補充するためだけであれば、人工知能が主体的に判断して発注し、パッケージを製作して個包装することも可能になるでしょう。

しかし仕入れは、農家とコミュニケーションをとる絶好の機会でもあります。現場に準ずる場面ですから、ここは1と同じように考えればよいと考えます。もちろん、在庫管理さえ誤りなくできればよいという場合には、人口知能のほうが優れているでしょう。

最後に「3. 販売」について。

膨大なデータ蓄積がある人口知能が販売員のかわりに商品を紹介するとなれば、お客さまの嗜好に応じて適切な商品をおすすめすることも出来るでしょう。鼻で感じる香り、舌で感じる味わい。この2点だけを突き詰めるのだとすれば、学習能力のある人工知能が全国の店頭で稼働し、学習を共有することで幅広い選択肢を持つようになります。

しかし、私が販売の際に伝えたいのは味や香りだけではなく、作り手の想いや環境をも含みます。ここは「1. 現場」の延長線上にあるため、私ではない人口知能に丸投げすることはあり得ません。

また体験を礎とした接客は、そのときになってみないとわからない、思わぬ化学反応を起こすことがありエキサイティングです。そのために会話がお茶から脱線することも大切で、先日は百貨店で出会った方が同じ小学校の先輩にあたることがわかり、ふたりで校歌斉唱して大笑い!なんて一幕もありました。

要するに…理屈は抜きにして楽しいのです。お茶がそこにあることをきっかけとして、不意に笑顔が生まれます。いろいろと書きましたが、これこそが人工知能のお茶屋と人間のお茶屋が、根本から違うところではないでしょうか。

そのような環境に身を置き、文脈のある、心を温めるようなお茶を直接お届けすること。ここに楽しさを見いだせる限り、これに呼応して「いいな」「楽しいな」「また行きたいな」と思ってくださる方々がたくさんいらっしゃると私は信じています。

と、ここまで書いてふと「それでは、買って下さる人の顔がわからない卸販売やオンラインストアはどうだろう」と思いました。

卸販売は、私のことをよく知ってくださっている方にお茶をお預けしてお願いしています。ここには、私が直接販売する場合とは異なる文脈が生まれ、人と人の関わりのなかに新たな偶然や楽しさが生まれる余地があるでしょう。「とにかくたくさん」と闇雲にやる場合とは着想が異なります。

オンラインストアは、販売の補助的なものとして位置付けています。一度お茶をお買い求めくださった方が、たとえば遠方にお住まいの場合などに気軽に利用してもらえるツールとして。

---

こうして自分の仕事を見つめ直していますと、気が付いたことがあります。「人口知能の時代に、お茶屋は必要か?」という問いは、答えを導こうとする思考の合間に、次のように形を変えてしまったのです。

「人口知能の時代に、あなたはお茶屋をやりたいと思うか?」

あなた自身の内にその必然性を見出すことは出来るか?要は楽しいか?ということなのでした。

私の答えはこうです。

「もちろん!」

---

詰めの甘いところはあるでしょうし、検討すべきポイントはまだあるかもしれませんが、いったんこれでおしまいとしましょう。

考えるなかで、開業してから3年が経ち今後はどのように働いていけばよいのか、ずいぶんと整理することが出来ました。要は、お茶を売るってけっこう大変なんです。だから、ついつい焦りから「あれもこれも」ってなっちゃう。

何を軸にしてこれからやっていくのか。あるいはやらないのか。このことを改めてじっくり見つめなおす機会となり、ひとつの指針を見出すことができました。そのことはここでは触れないでおきますが、またいつか。

最後に謝辞を。

Standart Japan 編集部のみなさま、素敵な一冊をありがとうございます。表紙のことば "standing for the art of coffee" の "coffee" は、私にとって "life" と読み替えてもいいなと思えるコンテンツ満載でした。

そして大山崎 COFFEE ROASTERSの中村佳太さん。こんなところでいうのも何ですが、地元に中村さんたちがやってきて店舗のない段階から活動をスタートされた様子は、私にとってこれ以上なく刺激的で、現在の私の毎日の礎のひとつといっても過言ではありません。その後もこうして積極的に思想を発信してくださるので、そのたびに考える契機をいただいています。ありがとう!

以上。長々とお読みくださいましてありがとうございました。