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  • 岡村友章

木の人と風の茶


今回の記事に書くことは、僕自身の身に実際に起きたこと。目で見た。肌でふれた。体で感じた。自分で考えた。

もちろんそれは、今までと同じこと。ただ少し、「はは、まさかそんな。」と思われる内容を含むかもしれない。自分で体験したことなのに、整然とした説明をなすことができず、それでもなお書かなければならないという衝動だけをたよりに、滞在中の汚いメモを確認しながらキーボードを叩いている。

ここに書くことを、真に受けて信じてほしいとは思っていない。ここに書いているようなことは、普段は僕自身が疑ってかかり、真に受けず、記憶の断片にも残らない態度で接している。

インターネットを利用していると、多様な物事の考え方を目にすることになる。それらの多くは非科学的だ。宇宙の記憶とか、ご神託とか、前世、とか。たとえよく見知った人がそれについて語っていようとも、自身はうまく受け止められない。

もちろんそれを否定したいわけではないけれど、自分の感覚でとらえたことではないから。

思い込みや憶測から記事を書くことはしたくない。今日、ここに残す長々とした台湾の滞在記では、実際に自身の身に起きたこと、意識に浮かんだこと、また見聞きしたことをそのままに記す。

それらについてうまく説明できない部分が非常に多い。しかしいずれにしたって僕は、何故かわからない強い吐き気をこらえながら、人混みの台鉄の車内、息苦しい独房みたいなドミトリー、そして桃園空港へ向けてかっ飛ばすタクシー車内で、大陸と台湾の老茶についてのメモを必死で書き残した。そうしなければならないという直感があった。

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きっかけは、Snip!さんの出版している「Snip!第2号 中国雲南省 喉をひらく旅」だった。この本の序文では、台湾の鶯歌という老街で著者らが出会った「自然なお茶」についての体験が、生々しい書き方でつづられていた。序文は本の出版に先駆けて公開され、僕は本の購入を待たずして台湾行きを決めたのだった。

何かを決断するにあたって、前職を辞職してからというもの、あまり時間がかからなくなった。行き当たりばったりと言えばそうだけれども、少なくともこの3年間ほどは、そこに救われている。

関空から台北までのチケットを予約した。妻には子どもたちを見ていてもらうため大きな負担をかけることになるけれど、「そのぶん、還元できるものがあると思う」というふうに言って出国の準備をした。

このようなとき、音楽をきちんと準備して気分を保つのが僕にとって儀式的な行程となっている。そのためにCD屋に行くこともある。今回は、フジファブリックの作品をいくつかiPodに収めておいた。

繁体字フリーハンド入力もキーボードに実装した。現地でわからない漢字があれば、この機能で検索するか、筆談で人に聞くなどしてなんとか凌げるから。

準備するもののなかで最も大事なもの。それはSnip!2号にきちんと書いてあって、「真っ白い紙のような人であること」だ。人より自分のほうが知っていると傲慢になったり、気持ちに余白がないあまりに受け取ることのできる余裕がなかったりすることがないように。

ところで今回の目的は、Snip!のおふたりが偶然にも訪ねた鶯歌の老茶を出す店に行き、そこで出される茶を知り、語られる言葉を記録することだ。

実はSnip!の文中には、微かなヒントは登場するも、店の所在地はおろか屋号すら紹介されていない。ただ鶯歌の老街の路地にあるということだった。

場所を具体的に聞き出すのは野暮に思えた。だからSnip!さんには「お願いだから住所を教えないでほしい。自分で探す。辿り着けたら縁があり、そうでなかったなら、そういう運命なのだと割り切るつもり。」と言っていた。

行きたいところがあるのに場所を知らない旅なんて、生まれてこの方、初めてとなるのだった。ただ、きっとすぐ辿りつけるという根拠のない自信に満ち満ちていた。

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第1日目(日)早朝に台北到着

もう5か6度目の台湾になるので、到着時のうきうきとした気分はあまり感じなくなった。それどころか、今回の旅は軽い緊張感をもって出発したので、何となくピリピリした空気を自身に感じる。

到着した日、まずは台北中心部のMRTを乗り回し、事前に調べていた食べもの屋をまわる。安定の豆花である。

昼ごろ、山崎十日市で以前にお茶をたくさん買ってくれた台湾人の夫婦と中山駅で待ち合わせて、昼食をご一緒させてもらった。僕は中国語がほとんど出来ないが、互いに英語は大丈夫なのでスムーズに会話が進む。

そのあとも夜間まで体力の許す限り、台湾の食事を胃袋に詰め込み続けた。味付け、食材、盛り方、店の内装やメニュー、そして人々の顔を記憶する。

バッドニュースが飛び込んだ。強い台風が明日、台湾北部を襲うというのだ。なんということだ。政府発表をインターネットで調べると、学校も会社もすべて公休になるという。滞在日数が少ないから、台風に怯えながら安いドミトリーで唇を噛んでいる暇などみじんもないのだ。鶯歌で、目的地にすぐ辿り着けなかったらどうする。

台北から鶯歌を結んでいる台鉄も運休の様相を見せ始めていた。現地に無理やり行ったはいいが、帰れなくなったら困る。などということを、携帯を睨みつけつつドミトリーで考えていると、眠たくなった。深夜フライトだったためにほとんど眠れていないし、また初日から飛ばして歩きまくり食べまくりであったので、とにかく疲れた。

なぜか小便臭くていやな湿気のこもるシャワー室で体を洗った。子どもたちは無事に寝付いただろうかなどと心配する暇もなく、ちゃんと洗濯してあるのか不安になる枕カバーに頭を落として眠りこけた。

丑三つ時ごろ、疲れているのに一度だけ目が覚めた。なぜか混乱しており、自分がどこにいるのか、なぜ独房みたいなところで寝ているのか、すぐに理解できずしばらく寝ぼけた気持ちで薄ぼんやりと考えた。このときすでに、臺灣のおそろしくも魅力的な魔術に堕ちていたのかもしれない。

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第2日目(月)台北

朝から風が強かった。まともに台風が島を襲う前に、街じゅうを歩いて歩きまくった。閉まっている店が多かったが、それでも開いている店はあるし、ぶらぶらと遊んでいる人もたくさんいた。

本来なら鶯歌に行く日だったが、鉄道が途中で運休にでもなったら困る。そこで、ある名の知れたお茶屋を訪ねることにした。そこの代表者のことを予め紹介してもらっていたのだ。なおここは本来の目的地ではない。

この店は、台北市の迪化街と、新北市の鶯歌にそれぞれ店がある。代表者はプーアル茶の権威であるそうだが、どちらの店にいるのかわからない。

迪化街には、業務用サイズの調味料店や乾物屋、青果店、道具屋、薬屋など、怪しい臭いを通りに吐き出す商店が無数に並んでいる。妻から頼まれていた食材調達も兼ね、迪化街へ行った。

「菜脯」といって乾いているのか濡れているのかよくわからない大根を買った。

さて、プーアルマスターがいるかもしれない小綺麗な店に着いた。店に入ると、奥にいかにもという風貌の男性がいるではないか。しめしめ、この人か。

彼は紙コップに入った烏龍茶の試飲をすすめてきたが、それはそこそこに「有普洱?(プーアルはありますか)」と聞けば、目の色が突然変わる。まあ座れと促された。

しかしそこで飲んだ2010年産だという中国雲南省のプーアル茶は、おいしいお茶とは思えず。なんだか喉回りに変な刺激が残り、生乾きのような味がするものだった。どうしたものか。気を遣って買うようなことはしない。

こちらが超単純な中国語しか出来ないことを知っているくせに、遠慮なく弾丸よろしく彼が話をしてくれるのを聞いてみれば、彼は探している人ではなかった。その弟さんなのであった。「これが兄。」と差し出された写真には、ヒゲモジャで何かしらの老師にはとりあえず見える男性が写っていた。

聞けば、お兄さんは鶯歌の店にいるという。

「オーケー。明天、鶯歌の店、オープン?(オーケー。みんてぃえん、イングーのてぃえん、オープン?)」と中日英の混じった訳のわからない質問をした。

後ろにいた女性の店員さんが言った。「エブリデイ、オープン」。それで店を出た。弟さんも笑顔で送ってくれた。

結局、鶯歌には翌火曜日に行くことになった。それでいいのだ。なぜかというと、今回の旅の本陣は、どっちにしても鶯歌だからだ。行かなければならない店があるが、住所を知らない。しかし、なんとかなるだろう。

午後から風がとても強くなり、現地のファミリーマートで購入したビニール傘は、たった一陣の強風で壊れてしまった。台北駅前にある三越百貨店の裏には飲食店が並んでいるから、いろいろなものを買い込んで宿のラウンジで食べることにした。

宿には日本人が何人かいた。旅先で日本人と関わることになんとなく抵抗がある僕は、宿を延長するためフロント前で座って順番を待ち、彼らの話を盗み聞きした。

ひとりは世界をまわるバックパッカーだった。エジプトから台湾に飛んできたらしい。エジプトはひどいと言っていたが、何があったのだろうか。

もうひとりの日本人の男も旅して世界をまわっているような風情だった。フロント係で英中日を華麗に使いこなす若い女性との会話を楽しんでいた。「写真撮っていい?」とその女性にスマートフォンを向けると、「No, no. やめて」と冷たく拒否され、ヘラヘラと笑っている。

同じ日本人だと一緒にされたくない気持ちだった。

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第3日目(火) 午前 鶯歌

朝6時に目が覚めた。落ち着かず、とにかく宿を出ようと荷物をまとめた。台風による荒天はおおむね過ぎ去ったものの、若干の小雨がまだ残る。

まっすぐ、台湾の国有鉄道である台鉄の台北駅へ向かった。電車も、切符購入機も、駅ホームも、どことなくローカル感が漂い心地よい。MRTとは異なり、安いアルミで包んだような簡素な見た目の「區間」に乗り込み、鶯歌を目指した。

知らない名前の駅舎に止まっては進み、知らない土地の風景がのんびりと過ぎていく。学生、サラリーマン、ご年配の方々。彼らひとりひとりに台湾での人生があり、いったいどんなことを考えながら日々暮らしているのか聞いてみたくなるが、そんなことはできない。

「鶯歌」が車内の電光掲示板で光り、「鶯歌(いんぐー)」とアナウンス。どきりと心臓が打って、いよいよ来てしまったのだと思った。

鶯歌の駅前は平日朝だからか交通量がやけに多く、台北よりも明らかにバイクの比率が高かった。煙たい排気ガスにむせながらグーグルマップが指し示す「老街」のほうへ歩く。まだ老街ではないがすでに焼き物を扱う店が立ち並んでいる。だがまだ朝7時にもなっておらず、開いている店などない。

途中、「鴬歌福徳宮」という寺院があったので入ってみる。中年の男性がひとり参拝しているだけで、あとは誰もいない。何とはなしに一日の幸運を祈ろうと思う。作法の全くわからない異国の寺で、唯一親しみを感じる線香の臭いに包まれて、しばらく合掌した。あのときちゃんと脱帽していただろうか?と今になって心配になってきた。

再び車だらけの通りに出て、歩道とは名ばかりの危なっかしいスペースを、肩を狭めながら歩いた。原付に正面衝突されそうになりながら、まっすぐ歩く。ここよりも数倍のバイクが入り乱れているベトナムやマレーシアでも思ったが、アジアの原付だらけの道路では、堂々と背筋を伸ばし、変な緩急をつけずに自信をもって歩いていれば問題ない。

坂道を少し上り、鶯歌老街に到着した。誰もいない。

老街は上空から見れば、重慶街・育英街・尖山埔路という3つの道路が描く大きな三角形をしている。ほとんどが焼き物を扱う商店で、あとは台湾茶を扱うお茶屋、そしていくつかの飲食店という風情だった。

そして、どういうわけか、目的としていた場所は一瞬で見つかってしまった。ここだ、という直感があった。Snip! 2号からも僅かなヒントを得ていたので、それと照らし合わせつつ。

しかし閉まっている。シャッターも下りているが、佇まいと立地はSnip!に登場するそのままだった。正確な描写に感謝したが、あまりにもあっけなく見つかってしまったので、拍子抜けした。心のどこかでグレートジャーニーを期待していたからだ。

近くの食堂はたまたま開いており、朝食を摂っていないのでまずは何か食べることに。蛋餅(ダンピン)という台湾風クレープと、加糖豆乳を注文。200円もしない。

この店のおばちゃんに、「◯◯(場所の名前) 今天、休?」と筆談で聞いてみたら「下午12」とメモに書いてくれた。午後から開くらしい。

台湾の人は、最初なんとなくふて腐れているように見えて、気にせず話しているといきなり破顔してくれる。ことが多い。このおばちゃんもそうだった。

いよいよだ。

時間がかなりあるので、老街を歩く。ずらりと並ぶ焼き物屋だが、そもそも火曜日は閉まっている店も多いという。そのなかでも半数ほどはボチボチと営業を開始しつつあり、中に入って茶器などを眺めた。

心の動くものはほとんどなかった。そこでなければ…と思えるものがぜんぜんない。

一軒だけ、茶壺を買うならここかなあと思える店を見つけたのでメモした。「弘祥茶壺」という名前だった。鶯歌で製造されたという茶壺が並んでいて、派手なものがほとんどなく、高すぎず、少しひっそりしている。しかし茶道具は基本的に足りているので悩む。お金はそんなに持っていない。結局、買わなかった。

鶯歌の店主たちは、あまり話しかけてこない。心地よい。でも買いそうな客に見えないだけなのかもしれない。

こんなところにスターバックスがあった。やることがあまりにも無くなり、どこかに座りたいし、それに充電のため電源が必要だった。「本日のコーヒー」を注文。包子をたくさん買える値段だ。

飲んでみたら、一気に体のなかに多国籍企業が入り込んでくるのを感じる。きつい味で、胃がギュっと縮こまる。ちっともおいしくないが、場所代、電源使用代だと割り切った。

スターバックスのお姉さんは、最初からわりとニコニコしていた。日本のスターバックスにいる人たちと同じだ。ハッとする。あの笑顔は、本当に笑顔なのだろうかって。

何人か日本人がいる。うまく説明できないが、なんとなく挙動でわかる。

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第3日目(火) 午後 鶯歌

12:00になった。店が開く予定の時間だ。なぜかすぐに近寄ることが出来ず、遠巻きに外観を確認した。

男性がひとりシャッターを上げて開店準備をしているのが見えた。心の準備が整わず、僕はすぐにそこへ行くことができなかった。

何か食べようと思った。胃に何か入れたい。近くに大腸麺線と臭豆腐を出している店があったので、それぞれ食べた。臭豆腐は10年以上前に九份で食べ、吐きそうになった。でも、このときはとてもおいしそうに見えた。

麺線、臭豆腐、そして炭酸ジュースを一気に流し込んだ。とりわけ臭豆腐は感激するほどおいしくて、思わず筆談、簡単中国語、ジェスチャーで伝えた。「我吃臭豆腐 九份 but コレ、好吃!」

おばちゃんはニヤリと笑って、少しだけ筆談で話をした。「你看得懂國字(あなた、読めるのね)」とおばちゃんは言う。少し文法も内容も違うが、漢字文化圏に暮らしていてよかった。

満腹になり店を出た。往生際の悪い僕は、それでも足が動かなくて、すぐ隣の店で豆花を食べた。満腹を通り越した。

目的地はもう開いているのに、さっきから馬鹿みたいに何をやっているのだろうと情けなくなる。ああもう、じれったい!台湾に来て3日目だぞ。何やってる!自分で自分に言う。

それで僕は意を決し、店のほうへまっすぐに歩いた。ええい、ままよ!

Snip!2号に書かれていた重そうな扉を引き、もうどうにでもなれという気持ちで、ほの暗い部屋に足を踏み入れた。外はいつの間にか晴れだった。

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第3日目(火) 午後 鶯歌 ②

中は広く、陶板や家具が適切な距離を保ってしんと壁際に並んでいる。何かを販売する場所という雰囲気はない。涼しかった。奥に小さな木のテーブルがあり、その横で50歳前くらいに見える男性が立ち、こちらを見ていた。老師だ。カジュアルな服装をしており、「江戸勝」と書かれたTシャツを着ている。

「你好」と挨拶をして、日本から来たこと、老茶が飲みたいことを伝えた。

座るように促され、そこからは筆談、老師が少しだけ話す日本語、僕の下手な中国語、グーグル翻訳を駆使して、コミュニケーションをとることになった。

「初めて?」

「はい。我的朋友、この本を作りました。」

そうして僕は鞄からSnip!2号を取り出して、青木さん・白桃さんがにこやかに笑っている写真をいくつか必死で見せる。

ああ、と合点がいったようで、老師は納得してくれた。そして本をぺらぺらとめくり、僕は序文と最終章を見せた。老師はそこに登場するから。

「私の言ったことが書いてある」と老師は言った。真剣な表情をしたり、にこっと小さな笑顔をつくったりしながら。また「喉韻通氣的好茶」と書いてあるページを見たとき、老師は頷いた。嬉しそうな表情だったと記憶している。

「この本を読み、そしてあなたに会うためだけに、台湾に来ました。いいお茶とはどんなものなのか、知りたいのです。私は大阪で日本のお茶を売っています」

すると老師は頷き、茶を淹れる準備に取り掛かった。

それが洪水に飲まれるような時間の始まりだった。

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第3日目(火) 午後 鶯歌 ③

老師は早口で何かを言い、僕がわからないという顔をすると、僕のノートにこのように素早く書いてみせた。

紫米油鹽醤醋茶以茶中和

琴棋書畫煙酒茶以茶靜心

(生活必需品である薪、米、油、塩、醤、酢、茶の7つは、すべて茶が中和する。また音楽、娯楽、書、絵画、煙草、酒、茶の7つから起こる心は、すべて茶が静める)

「自然なお茶は、喉をひらく。お茶は30パーセント、味。70パーセント、体で感じる。体が気持ちいい。温かい」

そういって彼は茶葉を取り出し、びっくりするほど大量の茶葉を茶壷へ入れ、100℃の熱湯を注ぎこんだ。いわゆる茶芸で見られるような所作や手順はほとんど見られず、非常に簡素なやり方だった。

「南投縣 鹿谷烏龍茶 1972年。」

差し出された茶は僕の全く知らない香気を放っていた。いいとも悪いとも、判断が出来ない。促されて飲むと、重厚なのに苦みや渋みは全くといっていいほどに感じられず、喉もとのイガイガした感じも残らず、するっと胃に降りた。あんなに茶葉をたくさん使ったのに、どうして?いきなり自分の理解を超えたものを飲み、わけがわからなかった。

「15回は飲める」と老師は言った。

おいしいとか、おいしくないとか、そのような判断は上手くできないお茶だった。何度も老師が注いでくれるのを、ただ飲み続けた。唯一、体はそのお茶に対して友好的に反応しているのがわかった。胃の下のあたりから温かくなり、やがて胸元や腕、指先へ。手のひらで汗が噴いた。

なんだろうか、これは。疑問符が無数に浮かび、持ちうる知識を動員してもまったくわからない。ただ、心地よかった。

「毎年500種のお茶を飲み、28年。残ったのは、32種」

なんだって?

「自然なお茶はむずかしい。自然なお茶ができるには3つの条件がある」

老師は言い、僕のノートにこう書いた。

天時 地利 人和

「『天時』は、気候がいいこと。寒冷、乾燥、地震といった不調はよくない。中国雲南で、2005年以後、気候のよかったのは2005年と2008年だけ。2006、冷害。2007、冷害。2009、地震。2010、乾燥。2011、乾燥。2012、乾燥。2013、乾燥。2014、地震。2015、地震。2016、冷害。2017、冷害。2018、地震。2019、乾燥。

次に『地利』は、大地の氣が強いこと。農薬で汚染されているとよくない。有機肥料は農薬より怖い。なぜなら『基因改造の豆』(遺伝子組み換え)が使われていて、胃が痛い。肥料も使わない野生のものがいい。いま大地の氣はとても弱くなっている。

そして『人和』は、天と地に感謝する人。しかし現代の人はお金に惑わされ、争ってばかり。お茶を買い占めるので、お茶がものすごく高くなっている。

天、地、人。ひとつでもだめになると、そのお茶はだめ。自然なお茶を飲み理解する人は、自然な人」

そして老師は、「自然な人は」と前置きして自身のメモを見せてくれた。

自在(のびのびしている)、感動(感動することができる)、分享(共有することができる)

「いまの人は自己中心的。このような人がつくったお茶は自然ではなく喉をひらかない。胃にすっと下りず胸元に留まる。眩暈を起こし、動悸がする。」

わかるとも、わからないとも言えず、ただ老師の言うことを聞く。

「1979年。日月潭。魚池老紅茶」

このお茶のことは、今しがた聞いた情報の海に飲まれ、メモも何もとっておらずうまく思い出すことが出来ない。

「胃→土性。心臓→火性。木性は土性に、剋。こころはふたつある。心臓は体のこころ。そして、こころのこころ。汚染された茶は胃の悪心を起こす。神精、霊性が抽動(痙攣)」

日本語を手繰り寄せながら、ノートにたくさんの文字を書いて、老師は説明をどんどん続ける。

なるべく漏らすまいと、僕も追いつこうと必死でメモを取り続ける。わからないことが次々に説明されるが、わかろうとわかるまいと、聞き逃してはならないという気持ちから必死だった。

しかしあるときに老師は僕の手を止め、ノートを閉じ、ペンと一緒に脇にやってしまった。

「これは、ただの知識。茶を体で感じるのが大事」

そう言われてハッとしているうちに、老師は第3のお茶を淹れにかかった。

「1977年。新竹 北埔の大葉烏龍」

そのお茶は葉のひとつひとつがかなり大きく、黒ずんでいた。台湾の烏龍茶といえばよく連想される玉の形のものでなかった。

どうぞ、と促されて飲みこんだそのお茶の味を、言葉で適切に表現することが今は出来ないけれど、起きたことをここに書いておく。

3煎目くらいまで飲み進めたころだった。なぜか気が付けば、3年前に死んだ母親のこと、そしてその父であり2年前に死んだ祖父のことを想う気持ちが、小さく胸に沸いていた。

「僕には死んだおじいさんがいるのです」とふと口にした途端、祖父と母のことが大きくなって胸元からせり上がって、自分では持て余してしまうほどの感情の塊になった。最初にぽつりと流れ出した1つの雫をきっかけに、涙が堰を切って止まらなくなってしまった。

出会って1時間ほどの初対面の男性。その前で、熊のプーさんのかわいいタオルで顔を覆いながら、涙をぼろぼろこぼして、僕は内から崩れてしまった。

老師は何かを納得したようにして、柔らかい表情で微笑んだ。

「この、お茶を、死んだ、おじいさん、お母、さん、に、飲ませたかった」と、やっとの思いで口にした。

老師は斜め下を見ながら、深くゆっくりと何度も頷いて、こう言った。

「死んだ人、いいところへ下りています。心配ない」

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第3日目(火)午後 鶯歌 ④

「自然なお茶は薬です。しかし大陸のお茶の80%、台湾と日本のお茶の99%は、自然なお茶ではありません」と老師は言った。

「英語は話せるのですね。それなら分店に行きます」と言われ、後をついて店を出た。

ほど近いところにある「分店」にはすでに先客があり、お茶を淹れているのは若い女性だった。先客である若い夫婦とその3歳の娘さんも加わって、さらに古いお茶を体験する時間が続いた。

この夫婦は、5年間ニューヨークに住んで先だって帰国してきたという台湾人で、とても綺麗な英語を話す人々だった。

老師が夫婦に、中国語で先ほどまでの時間について一通り話をしたようだった。そののち英語で、夫婦は僕に言った。

「私たち夫婦は、老師の生徒です。老師からあなたの話を聞きました。あなたはお茶のことを理解しており、お茶を感じることができますし、彼からの学びを必要としていません。お茶と会話をすることができるのですから。老師は、あなたが木性の人だと言っています。例えば野生の松の古樹が、葉を大きく広げて風を受け、環境から影響を受けているように、木性の人はとても強い感受性をそなえています。木の人の心は、風の茶が解放します。あなたは先ほど老師の茶で涙を流したそうだが、それは風のお茶だったのですよ。私たち生徒はみな、老師のお茶で泣いた経験がありますし、何もおかしなことではないから心配しないで」

まったく、わけがわからない。木の性?風の茶?泣きはらしたかと思えば、今度は涙の理由についてさっぱりわからない説明を聞いている。

続けざまにして1920年の正山小種が出された。このお茶のことを「百茶」と彼らは呼ぶそうだ。

「このお茶にあなたが何を感じるか知りたいと彼女が言っています」と質問された。

「いろいろな話を一度にたくさん聞いているよう。受け止めきれず、居心地のいい心を感じない」と僕は答えた。

それは彼らが期待していたような答えではないらしく、「おそらく、あなたは今日たくさんの古いお茶を飲みすぎた。今日は、もう受け止められないのだろう」ということだった。

アメリカ帰りの旦那のほうに質問をしてみた。「ある特定の『自然なお茶』に対する人間の内面的な反応は、いつも一定なのですか?」

彼は答えた。

「いいえ、そうではありません。たとえば私は金性(meteor/流星)の人間なのですが、金性の人だけが飲むと幸福感を味わうお茶などがあり、お茶に対する反応は多様です」

付け加えるようにしてその奥さんが話す。

「お茶が、まるでひとりの人であるかのように感じるとよいのです。たとえば干ばつの年のお茶を飲めば、それがわかる人は喉の渇きを感じます。また地震の年のお茶を好む人はとても多いのですが、それは地震の年にはお茶が刺激的な味わいとなり、それを求める人が現代は多いのです」

説明を聴けば聴くほどに混乱する。そのうちに散会となった。

老師から「明日も時間はあるか。私の姉は日本語教師なので通訳ができる。飛行機の時間までお茶をここで飲むといい」とお誘いを受けた。考えるいとまも必要とせず、「ぜひ!」と返答し、店を出て台北への帰路についた。

体がおかしくなったのはそれからだった。台鉄の鶯歌駅で電車に乗り込んだあたりから、波打つ吐き気と強烈な倦怠感を全身に感じた。しかしそれでも、この日、身に起きたことを記録しなければならないという気持ちが先に立ち、吐くのを我慢しながら台鉄車内で、また台北駅で、そしてドミトリーの独房みたいな部屋にこもって、思い出せる限り必死でメモをとった。この文章はすべてその記録と記憶から起こしている。

吐き気を覚えることは、お茶を飲みすぎたらよく起こる。カフェインにあたってしまうような感覚だ。胃がきりきり閉まって頭も重く、目もばっちり冴えるが一方で瞼の奥に抑圧された眠気を強く感じる。

しかしこの日の覚醒の感覚は、それとは違っていた。雑な考えが一切浮かばず、思考は澄み渡り、風のない日の池の水面みたいだった。ただ異常な疲労感と吐き気が全身にいつまでも残り、ベッドに横になっても寝付かれなかった。

ただ、鶯歌のおかしな世界から、都会の喧騒に身を置いていることに少し安堵していた。

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第4日目(水)鶯歌

指定されたとおり、午前11時に「分店」へ向かうと、もう何人か到着していた。今日は5名ほどの生徒がおり、みな台湾の人々だった。やがて老師のお姉さん(日本語教師)が到着し、久しぶりに長々と日本語で話をする。

この日も、昨日と同じ女性が茶を淹れてくれた。

1978年 台湾 新竹市 関西地区 老紅茶

2008年 中国 雲南省 野生プーアル茶

1989年 台湾 玉山 烏龍茶

1983年 台湾 鹿谷 焙煎烏龍茶

1986年 中国 老六堡 黒茶

1934年 中国 正山小種

それぞれの感想を書いても意味がないような気がするが、羽が生えてしまいそうな素晴らしい香りのお茶、どこか緊張感のあるお茶など、体験したことのない感覚を味わうお茶ばかりが登場した。

「私たちは毎週土曜日に弟(老師)の講義を朝に受けて、午後にはこの場所でお茶を飲んでいます。今日は水曜日で普段はなにも無いのですが、お客さん(あなた)があるので特別に集まってのお茶会です」と言われた。うれしい。

1934年の茶を飲み、「どう感じる?」と尋ねられた。

「肩と胸がストンと降りて、溶けるようにやわらかい気持ち。体が軽く、しかし自分自身の体の重さを心地よくも感じます」と答えた。

通訳を介して僕の感想が伝えられた。

「正しく感じている。さきほどからあなたを見ていると、そうとわかる。しかし日本人には、経験上、かなり古いお茶の感覚があまり伝わらない」

そのような返事があった。

「多くの日本人は刺激の強いお茶を好みます。仕事がつらく、現代社会の環境もよくないなかで、ストレスがたまりますね。このようなとき、人は刺激を求めます。たとえば多くの抹茶は『氣』を上の方向へ持っていこうとする性質があり、パワーが強いのです。抹茶を点てるときに茶筅を使って泡立てると思いますが、あの泡立てには氣を強くする作用があります。上方へ行った氣は、甘いものを一緒に摂ることで下がります。そうしてバランスを自然にとろうとしているのですよ。仕事が大変なときにも氣は上方へ向かいますが、酒は氣を下げる作用がありますので、みなさん酒をたくさん飲みます。」とお姉さん。

「では、抹茶はあまりよくないということですか?」

「いえ、茶種は関係ありません。弟の言うように、条件の揃ったお茶であれば、何でもいいのです。悪いお茶は茶氣が胃にとどまり膨らみます。よいお茶だと胃から下へ、すっと下りていきます」との答え。

「どうして、毎年何百種ものサンプルがここには届くのですか?」

「弟が自分で生産者を回っていることもありますが、持ち込まれることもあります。弟には、『私』がありません。だから、天からお茶が集まってくるのです」

「お茶のほか、口にするものについて皆さんは普段から気を付けていることがあるのですか?」

「特に気にしていません。紫米油鹽醤醋茶以茶中和。琴棋書畫煙酒茶以茶靜心。自然なお茶は薬になります」

「こんな茶を知ってしまった以上、これから僕、仕事はどうすればいいか悩んでしまいます。日本のお茶が僕は好きなのです」

「あなたが、古い日本茶を売ればいい。しかし非常に難しく、ほとんどないだろう。また日本では、質ではなく見た目にいいものがよいとされる。パッケージや、デザイン…。あなたは信念を貫き、あなたがいいと思うものを扱えばいい」

「自分でお茶をつくるという選択肢について、どう思いますか」

「難しい。天(気候)と地(大地)が、現代は弱っている。だから、私たちはいいと思えるものを選びここに置いている。それだけだ。もちろん条件のそろうお茶がないとは言い切れないが、今後とても少なくなるだろう」

帰国後の学びの助けにと、2008年の野生プーアル茶と1977年の烏龍茶を購入した。前者は、陽気なお茶でポカポカと温まった。後者は、前日に涙を誘ったお茶だった。

「それくらいでよい。さっき飲んだように80年ほど前の極めて古いお茶は、氣が強すぎて、あなたはこれ以上受け止められないだろう。次にまたここに来たときに飲めばよい」

そう言われた。

やがて時間が満ち、みなで在来種のグアバを切って食べた。グアバがあれほどにみずみずしく香りのよい果物だとは知らなかった。信じられないくらいに、おいしかった。

タクシーを呼んでもらい、鶯歌の異世界から脱出することになった。

常に険しい表情を浮かべ続けていた席主の女性だったが、タクシーがやってきたころには幻想みたいに美しい笑顔をたたえ、僕を送ってくれた。

「あなたが帰ったあとも、私たちはまだお茶を飲む。」

うらやましいと答えると、「では、もう少し居なさい」と彼女は冗談混じりに言った。

「日本行きのチケット、私にちょうだい!」と同席した生徒が声をあげ、みなが笑った。

老師はいつの間にか居なくなっていた。

お姉さんから「私もこのSnip!という本がほしいのですが、どうすれば買えますか?」と訊かれたので、帰国後に大阪から送ることになった。連絡先を交換して、鶯歌に気軽に連絡をできそうな頼れる人がひとりできたことをとても嬉しく思う。

皆に温かく見送られた。かっ飛ばすタクシー。鶯歌の老街はあっけなく後方に消えていった。南国の街路樹と、コンクリートと、緩む電線に自動車とバイクばかりの情緒のない風景に早変わり。あっという間に高速道路に乗っていた。

タクシー運転手は中日グーグル翻訳を駆使して、わけのわからない日本語でコミュニケーションをはかってきた。しかしそのとき、昨日のように、再び激しい疲労と吐き気が内から湧いており、顔面蒼白。手は氷のように冷たくなっていた。

「東京、ラーメンおいしい。ディズニー、ハッピー!」

頼むから黙っていてくれと祈ると、運転手は何も言わなくなった。

桃園空港に着き、苦しみながら出国手続きをして搭乗を待った。動かずにいると吐き気に体が乗っ取られてしまいそうだった。鶯歌の魔法が解けない。

体が、ケミカルで、ベロにおいしく、非道なやり方でつくられた食い物を求めた。やたら高い牛肉麺を買い、それを食うと吐き気はやや収まった。

ナチュラルで氣の強いお茶なんて、いまは到底ゴメンこうむる気分だった。飲んだら関西エアポートに着く前に機内で死にそうだ。

まったく、わけがわからない。何だってこんなことになった?

確かなことは、皮肉なことに、飲みすぎるとヤバくて死にそうになる茶をまた求めに鶯歌を訪ねるだろうということだ。

「鶯歌という地名の由来は何ですか?」とお姉さんに聞けば、「この地方の山に、鶯のような形をした岩があるのです」という話だった。あまりにも悠長だ。甘い名前で人を危険な世界に呼びこんで。

やがて飛行機が飛び立ち、4日の間ずっと足をつけていた愛すべき台湾の大地と引き離されてしまった。ジェットエンジンにより、無慈悲なまでにピーチ・エアラインの飛行機は加速上昇して、台湾が雲の彼方に消えた。

この瞬間も老街のどこかで茶を飲み氣を感じる人々がおり、深夜いよいよ盛り上がる夜市ではその日の売り上げに死力を尽くす店主たちがいる。やる気のないジューススタンドの若者の顔ですら懐かしい。

彼らともう少し一緒に居て、彼らのことを知りたかった。

車の排気と茶の香気が派手に入り乱れる島から脱出し、日本に帰ってきた。

パスポートを開けてみれば、やはり僕は中華民国に行っていたのだ。それに、京都駅に至ってもいまだ精神は冴え、あの強い倦怠感と、えも言われぬ吐き気が健在だった。老師と本当に出会ったことを証明している。

帰宅してから1977年の烏龍茶を開封した。

風の茶が、胸の底に沈んでいる何かに向けて、言葉にならない言葉を語りかけた。