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  • 岡村友章

具体的な誰かの為に


滋賀の政所を再訪したことは先のブログ「一日よろこび / 政所の在りし姿と今日の生活の先に」でも書いたとおりです。様々な反応をいただくなかで、ふと思い出した一冊の本がありました。

花戸貴司(文)國森康弘(写真)「ご飯が食べられなくなったら どうしますか? 永源寺の地域まるごとケア」(農文協 2015年)

この本の中身については、農文協ウェブサイトの「解説」をお借りしましょう。

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「死なないための医療」にしがみつくのではなく、「自分らしく死ぬ」ために、患者自身がどのような医療を選ぶかが、最近、注目されている。

著者は、この選択を堅苦しく、深刻に迫るのではなく、「ご飯が食べられなくなったらどうしますか?」と、日常の会話のなかで、ごく自然に患者に問いかける。その問いかけを受けて、永源寺のお年寄りが自分らしく死ぬために、どう医療を選び、どう生活し、どう人と付き合ったかを、患者自身の生活風景として描いていく。

さらに、その生活風景を、写真の力を借りて、読者の目に浮かぶように表現。

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政所は、奥永源寺とも呼ばれる地域で、東近江市の東端に位置しています。著書の花戸さんは奥永源寺を含む永源寺地域の人々を診る東近江市永源寺診療所の所長。この本は、私がいつも本を手に取っている本屋「長谷川書店」(大阪府島本町)に並んでいるのをたまたま見かけ、政所のお茶だけではない日常について興味があり、手に取ったのです。

老いも若きも…人生の最期の一瞬までもその人らしく過ごす時間に、花戸さんだけではなく地域の人々や医療福祉関係・ボランティアの方々、そしてご近所さんたちがそれぞれの役割を果たしながら添い遂げる様子が克明に描かれています。

花戸さんは「互助(おたがいさん)」の必要性を説きます。

医療・介護・社会保険・公的支援は制度化されているフォーマルな事業であるのに対して、互助は人々のつながりのなかで育まれるインフォーマルなものです。

永源寺地区はすでに高齢化率30%を超えており、全国平均より10年先を走っていると書かれています。しかし、永源寺の人々の半数以上が病院ではなく自宅で、いつもと同じように時を過ごし最期を迎えることが出来ているのは、互助による小さなつながりを守ってきたから。

都会ではなく永源寺にさえ行けばよいという話なのではないのです。それがどこであろうとも、時には煩わしいかもしれない付き合いや行事などと引き換えに貯めてきた、互助の力のあることが肝心。

都会でもこれは不可能ではなく、小さなコミュニティをつくって「地域まるごとケア」を目指し、他人まかせではない自分らしい一生の終え方を自分で決めよう…こうして本は締めくくられています。

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私はお茶屋を営む者として、この本のある一節にとても共感を覚えました。p.117から引用します。

「自分の患者さんのことだったら、病気のことはもちろん、どこに住んでいて、誰と一緒に暮らしているのか、そして息子さんご夫婦、お孫さんの顔や名前まで思い浮かべることができる。人によっては、家から離れたところであっても、どこに畑があるのかも知っている。

これは言い換えると、病気のこと以外に、患者さんの生活や地域のことに関心を持てるようになったということだ。それで病気を治すことはできないかもしれないが、患者さんの心を癒し元気を増やすことはできる。」

この一節を自分のことに当てはめて読み替えました。「自分の患者」は「取引のある茶農家」。「病気」は「お茶」。「病気を治す」は「お茶をたくさん売る」。

医師とお茶屋は違うじゃないか、という意見もあるでしょう。しかし、ある職業に就いている人たちが、みな同じ共通認識を持っている訳ではありません。

花戸さんは、ただ病気をみて病気を治すことを良しとせず、人をみています。この姿に私はとても共感を覚えます。「ただお茶をみてお茶を売ることを良しとせず、人をみる」ことを望み、貫くことが大切だし、さもなければ私のように零細な事業者がお茶を扱う大義は、ぐらついてしまう。

現在、すでに15名を超える茶農家の人々からお茶を送っていただけるようになりました。私はこれ以上、むやみにラインナップを増やすことはしたくないと考えています。常に新しい何かを揃えておくことを前提にしてしまえば、その変化のスピードに、地に足ついた人々の営みは絶対についていけません。また、日和見で扱うお茶を選ぶこともしたくありません。

具体的な誰かの為に。その人の横顔、後ろ姿、正面の表情を見続けたい。

私は、おいしいから買うのはもちろんですが、その人が好きで、小さくてもいいから行く末の支えになりたくてお茶を買っています。だから、おいしくなくても買うし、もっと言えば本当の意味で「おいしくない」なんてことは有り得ないのです。おいしい、は、味覚と嗅覚だけが司るものではないから。

思い出に残る料理のよさは、味とにおいだけにとどまらず、もっと多様で個人的な要素ゆえだと思います。

だからこれからは、すでにお取引のある人たちとの関係を第一に、彼らの姿をできるだけ丁寧に追い、ときに一緒に走りたいと願っています。

お茶を売って家計を潤わせることを放棄してはいけませんが、その前に、私がお茶を売ることで農家が喜んでくれることのほうが大切です。

茶農家はお茶をつくっているだけの人々ではありません。同じようにご飯を食べ、歯を磨き、寝て、病気をときに煩い、老いていく。お茶は暮らしの一コマで、支え合いながら生きていくべき存在としては同じ。

花戸さんが多彩な分野の人々と横並びになって人の暮らしを支えている様子を読み、私もその一員になりたいと願います。

先日お会いした、政所の川嶋いささん(写真)も、そんな想いを抱かせてくれる一人でした。春にはいささんの番茶がやってくることでしょう。その1杯を皆さんに紹介することで、いささんが喜んでくれることこそが、私の喜びです。

支えになりたいと書きましたが、本当のところは私が支えてもらっているようです。住む場所は遠いけれど、これも互助という関係になることができたらいいなと思っています。


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