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  • 岡村 友章

1990年代の吠える犬



本日の十日市は、途中から天候が持ち直し無事に販売することができました。運営の皆さま、気疲れが体調に出ませんように。

うれしい一幕がありました。ある女性のお客様が立ち寄ってくださり、「岡村さんの息子さんですか」と仰います。僕は「はい、父とお知り合いなのでしょうか」と答えました。

その方はMさんといい、聞けば、電気工事士である父がご自宅の電気設備を修繕したという話。


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子どものころ、実家のすぐそばに、自宅の1階を菓子屋さんにしている家がありました。よく小銭を握りしめてお菓子を買いに行ったものですが、この家には犬がたくさんいて、売り場のそばまで出てきて元気よく吠えるから怖かったのです。

当時、犬が苦手でした。(今は大好きです!)それでも菓子を買える最寄りの場所はこの店だったから、菓子のためには行かなくてはなりませんでした。誰かが店に来ると、売り場と自宅を区切る小さなフェンスの向こう側にまで犬がやってきて、必ず吠えました。よく吠えるやつは、たしか鼻筋のきれいなコリー。


どうしてこんなにたくさんの犬が家のなかにいるのだろう、と深く考えもしませんでした。ただ、犬に怯えながら菓子を買って帰る。それだけのことでした。


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今日お会いしたMさんは、そのお店をしていたおばちゃんの、娘さんだったのです。


「ご家族はみなさん元気ですか?」というMさんに、僕は、母親が4年前に亡くなったことを話しました。Mさんは絶句してほんのり目を赤らめました。


「お母さんは、きれいな人でしたね」。若いころの母を知っている人が目の前にふと来てくれて嬉しく思いました。もっとも、亡くなった時点でもまだ51歳。若かった。


「父はひとり暮らしですが、僕も妹もそれぞれ結婚して子どもがおり、父の近くで暮らしています。いろいろありましたが、みなそれぞれに元気に暮らしていますよ」


「聞いてしまってごめんなさい。みなさん、いまもお元気でおられるとばかり思っていたから」


「いえいえ。母は若いときから病気がちでした。…母にもMさんのお店に連れていってもらったのかどうか…そこをよく覚えていません。それにしても、どうしてあんなにたくさんの犬がご自宅にいたのですか。当時はただ怖いばかりでそんなこと聞くこともありませんでした。2,30年も前の話ですけど…」


「あれは、みな道で行き倒れている子とか、警察に預けられて保健所に送られる寸前の子とかを引き取っていたんです」


「えっ、そんな経緯があったんですか…全く知りませんでした」


「ときどき警察からうちに電話が来ていたんです。『明日保健所行きになる子がいるんです』って、涙声で。それで母親と私は『見るだけ、見るだけ…』といって警察に行くんです。すると犬は母親の腕にまとわりつき、甘噛みして離さないんです。そんなの見てしまったら、もう…引けないですよね」


「…」


「どの子も人に迷惑をかけない犬でした。夜になると不思議と泣き止んで、糞便のことで近所からクレームがあることもありませんでした」


「犬なりの恩義を感じていたのでしょうか」と言いかけて止めました。終の住処としてMさんのところに行き着いた犬は幸運だったと思いますが、それまでに彼らが経験したであろう人の冷たさを思うと、「人の恩義」だなんて、なんだかおこがましくて言えないからです。


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Mさんとの話で幼少期の日常に引き戻されるような思いがしました。


今では、家を改装して菓子屋をしている人だなんて、なかなかいないでしょう。当時はほとんどコンビニなんてありませんでしたが、今は私の家の近所にいくつも店舗があります。便利だけど、そこに吠える犬はいません。そこだけの風景というものは、ありません。


幼少期にろくに話もしたことのないMさんと、何のご縁か、こうして長いときを経てようやく会話をすることができました。Mさんは私のおすすめのお茶をひとつ買い求め、そして「こうして会えたことが嬉しく、大したことはできないけれどお釣りはいらないですよ」と仰り、私たちはお別れしました。


しばらく頭の中は、1990年代の犬の声でいっぱいになりました。


恐る恐る店に近づき、コンクリートの階段を2段ほど登ってガラスの引き戸を開けると、中は菓子屋です。すかさずコリーが飛び出してきて、僕が帰るまで奥で吠えています。いっこうに慣れず、何度行っても怖いままでした。


Mさんの家のすぐ横は田んぼで、ちょうど今頃は垂れた稲穂のにおいを胸いっぱいに吸いこみました。田んぼに水があるとき、この田んぼにはカブトエビやホウネンエビといった水生生物がたくさんいて、それを捕まえて遊びました。


あんなに怖かった吠える犬の記憶を引き金にして、胸がぎゅっとなるような思いをする日が来るとは。呑気な当時の僕には知るよしもありません。呑気は今も変わりませんが。


Mさん、お会いできて嬉しかったです。

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