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  • 岡村 友章

ディスタンス / 手紙と電話



滋賀県の日野町での研修から大阪に戻って、はや2週間以上が経った。まるで夢を見ていたかのような感覚で満田久樹さんとの日々を思い出す。プライドを破壊する肉体労働の数々ですら恋しく、自分の仕事ではあれほどの運動量を必要とすることがまずないから、何だか持て余す。


日野での最後の日、別れの間際に僕は気の利いた言葉のひとつも満田家の人たちにかけることができなかった。毎日ブログではあれこれ書いたのに、肝心なときに限って何も出てこない。


そのことがずっと気がかりで、地元に戻ってからも悶々としていた。


ある日、思い立って白い紙を買った。手紙を書こう。書き始めれば、きっと言葉が出てきてくれると思った。


手紙なら、面と向かって言いにくいことも書ける。ここぞというときに手紙に気持ちを託すということは、学生のときから何とはなしにやっていたことだった。


長期留学に出発した日は、自室に家族に宛てた手紙を置いてきた。

妻と結婚する前、ことあるごとに手紙に「好きです」と書いて渡してきた。

祖父が死んでしまったとき、棺桶のなかに手紙を入れた。


どれくらいの分量になるか予想もできない。下書きもせずいきなり清書からはじめた。


「久樹さん」と1行目に書いた。刹那、僕は彼のことを名で呼べるようになったのだと改めて思い、そのことに感じ入る。


あとはペンが勝手に動いた。日野での日々を振り返りつつ、起業以前からの久樹さんとのお付き合いに触れながら書いた。書きながら、感情の塊が胸元に押し寄せては引いていく。なぜなら、言葉を文字におこしてはじめて知り得る自分の気持ちが確かにあるからだ。ぼんやりとした感情の霧をかき集め紙の上に置いていくとき、言葉は贈る相手のみならず、書き手自身をもはっきりと見つめている。


書きたいことがあるから手紙を書くのではない。

自身から生まれる言葉を見たくて書くのだと思う。


びっしりA4の紙に3枚ほど書いたところで「もうええよ」という気持ちが顔を出したので、やめた。中途半端な尻切れとんぼだけれども、無理やり綺麗にまとめようとするよりも、粗野な感情をこのままぶつけてしまうことにした。紙を折って、飾り気のないどこにでもある茶封筒に封緘する。


近所の郵便局に手紙を預け、84円を支払う。それが日野での研修のひとつの区切りであるような気持ちがした。レシートは修了証書だ。言い切った。これでよし。

それから数日。今日は別件で聞きたいことがあったので、久樹さんの自宅に電話をかけた。するといつもは奥さんが出るところ、久樹さんが出た。


まるで何年も話をしていなかったかのような気分になる。互いに、なんとなく言葉にならない気持ちを抱きつつ話をしているのが、電話越しであってもわかる。ひょっとして電話だったからこそかもしれない。


声を聞くだけで、何とも言えぬ嬉しい気持ちがしてきた。


「あの肉体労働が恋しいですよ」

「そうか。岡村くんが帰ってから、畑仕事ばっかりやで」

草取りのことだ。酷暑のなか、草取りは尚も厳しさを増していることだろう。


「手紙、おおきに。みんなで読ませてもらって感動しました。岡村くん文才あるな」

「ありがとうございます。でも久樹さんの小学生のときの読書感想文には負けますよ。あはは」

「んふふ!」と久樹さんは噛み殺したような笑い声を漏らした。


どういうことかというと、日野町立図書館で郷土資料を眺めていたとき、日野町の教育委員会が編集した地元小中学生の読書感想文集を見つけていたのだ。無数の冊子のなかから何となく手に取ったもののなかに、僕は奇跡的にも、小学5年生である満田少年の文章を発見したのだった。


(その文章は満田家の人々に見せ、とりわけ久樹さんの息子は父の文章を見て何やらにやにやしていたのが印象的だった!)


それから、納品を待っているティーバッグの話をして、電話を切った。切り際の空気がどことなく切ない。


厳冬、コーヒーの温かさが分厚い陶器にゆっくり伝わるときのように、丸みのある気持ちが胸元に残った。じんと満たされるような思いがする。この感じは電話だけのものだ。


そして午後にも僕は、政所煎茶を販売開始したことを改めて報告しようと思い、川嶋いささんにも電話をかけた。



久樹さんは「もしもし?」と、まるで電話の前で着信を待っていたかのような調子ではきはきと出てくれるが、いささんは「も〜しも〜し」とのんびりとした応答だ。


それで、いささんのお茶をとても美味しいと思うことや、扱わせていただけることへの感謝の気持ちを伝えた。政所のお茶を預からせていただけるというのは、大変光栄なことなのだ。


いささんはのんびりと話すけれど、その言葉の端々には世を達観したかのようなキレがあって、ひとつひとつの言葉に独特の重みがある。


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手紙も電話も、限られた時間のなかで行う対話だ。


それとある種の対をなすのが、不特定多数に向けたSNSの「投稿」ではないかと思う。「対象をイメージして書け」とはいうけれど、それは単なるイメージであって、本当の1対1ではない。


こうして店舗を持たずに仕事をしていると、「とにかく、どうにかして売らなきゃ」という思いが定期的にやってきては頭を悩ませる。だから限られた時間で「より広く、より目立ち、より効果的」であるために、ソーシャルネットワークを利用しようとしてしまうことも多い。


もちろん、SNSを悪く言うことはしたくない。その恩恵には十二分に与っているし、おかげで出会えた方々もたくさんいらっしゃる。日々のちょっとしたコミュニケーションも支えてくれている。便利なものだ。


だが、時間に制約があることばかりにとらわれていると、「仕事は具体的な誰かのためであるべき」という初心ですら見失いかねない。具体的な誰かのために仕事をするということは、出版社「夏葉社」の島田潤一郎さんが著書「古くてあたらしい仕事」のなかで語っている。大共感だ。


ひとりのために時間をかけて気持ちを共有すること。それが、よい仕事につながっていくと僕は信じている。


手紙も電話も、相手との間に距離があるから、味わい深くなる。離れているから通いあう気持ちを、違いにしみじみと胸に抱くことができるのだと思う。


「密を避けてディスタンスを」と、このところ人は言う。


でも、密であることこそが、人が尊厳をもって生きていくために必要だと僕は思う。だから人は、ディスタンスを埋めようとする。手紙や電話で。


ずっと昔からそうであったように、人は距離を心で埋めることができる。心で埋まった距離が、物理的な距離の近さに劣らず豊かな世界を感じさせてくれる。


誰もひとりでは生きていけないのだ。

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