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  • 岡村 友章

生産者の名前を出すのはやめたほうがいい



この間、世話になっているお客さんから投げかけられた一言がある。


「岡村さん、生産者の名前を出すのはやめたほうがいいですよ。お客さんが生産者から直接買うことになってしまいませんか。岡村さんが儲かりませんよ」


反射的に僕は「無理です。農家のことを話せないなら、僕がやる意味はありません」と答えた。


この助言は、もちろん僕の収入を心配してのことだったから嫌な気持ちがしたわけではないし、気にかけてもらえるのは何よりなことだ。(Sさん、読んでくれているかどうかわからないけれど、ありがとう!)


肝心なのは、「無理」と答えた僕のこれからのあり方だ。


ともすれば僕の販売のやり方は、「生産者の物語」という耳障りのよい言葉に依存したものになってしまう危険が常にある。農家のところで見聞きしたことに余計な補正をかけ、写実からかけ離れてしまう危うさ。


これに甘えてしまうと、お茶屋としての目利きを蔑ろにしてしまいかねない。あくまでも僕は日本茶専門店の店主であり、客観的にお茶をみる目がきちんとしていなければならない。その上ではじめて、物語をあちらからそちらへと運ぶことを許されるはずだ。さもなければ人の人生を歪めて伝えてしまうことになる。


インターネットは自らを見せるための場でもある。だから、大きな声では言いたくないけれど、「いいとこどり」をいくらでも見つけることができる。他人の苦労を踏み台にして自らの背を伸ばそうとしているような人だ。


ひょっとしてそんなことが必要なときがあるかもしれないが、僕はそうは思わない。人の物語をちょっと聞いたくらいで、物知り顔になって、それを切り売りすることには強い抵抗がある。It's not my cup of tea. (それは好みじゃない、という意味のフレーズ)


民話採訪者の小野和子さんは、著書「あいたくて ききたくて 旅にでる」のなかで、民話の語り手と、都会の人間としての自らのやり取りのなかでこう言っている。



…都会の感覚で村に入り込んできて、「民話」を聞いて、それを解釈したり、わかったような顔をすることに、彼女(岡村注:語り手のこと)は耐えがたい思いがあるのだ。わたしはそういう明子さんの気持ちをある程度までは理解できるけれど、わたしは逆立ちしたって、彼女の共同体における味方になれないこともよくわかる。味方になりたくてもなれないのだ。調子よく「味方」という言葉を口にしないところに自分を置いて、そこからものを見ていきたいと思っているのだ。



調子よく味方だとは言えないお気持ちは痛いほどわかるような思いがする。僕の場合には、相手は生産者であり、こちらはそれをお預けいただく販売者だ。運命を共にしますよ、だなんて、そんな軽々しいことは簡単には言えない。


しかし、生産者との交流ではひとりの人間として気持ちの通い合いを体験することもままある。そのようなときの感慨を、どうにか伝えたいと思い、苦し紛れに文章にすることも多い。そんな気持ちに釘を刺すかのように、小野さんは同書のなかでこうも書いている。



「語った通りに書いたんだな」と思われるまでに書く — このことのむずかしさがある。



つい説明口調になってしまったり、余計な翻訳を加えてしまったりと…聞いたことを人に伝えるにあたっては誘惑が尽きない。これをぐっとこらえて、つとめて写実的であることはとても難しい。


そのままのことばには、強い力がある。たとえば日野の満田さんは、滋賀の方言で「けれど」を「けんど」と言う。「お茶」を「茶ぁ」と言う。土着の言葉が持つ奔放さはそれ自体が魅力的だから、たとえそれが「標準語」話者がほとんど理解できない表現であっても、そのままに書き、必要ならあとから補足するべきだ。


脚色をすることなく写実的であり、必要に応じて翻訳者となって生産者のことを伝え歩く。まるで前後で矛盾しているかのような話だけれども、片方だけやっていては決定的に失われてしまう要素がある。きっとそれは、知らないものごとに対する素朴な好奇心なのだと思う。


生産者の生活はファンタジーではなく、いまこの瞬間にもあなたの生活に並走している現実に他ならない。僕は、その間をちょっと詰めてもらう作業をやりたい。遠い異国の話として望遠鏡で覗くのではなく、手の届くところにあるものとして感じてもらいたい。生産者は手で掴めない雲ではなく、切れば血の吹き出る生身の人間なのだ。


でも、僕がその役割を果たすには、生産者に対する深い洞察が必要だ。映画監督の濱口竜介さんは、「あいたくて」の最後に寄稿している文章のなかでこう書く。



他なるものに出会い、それまでの自分では決して理解のおよばない事柄の前に立ち尽くす…。「いまの自分のままじゃ聞けないんですよ。語り手に見合う自分をつくり出さなくちゃいけない」と小野さんは言われました。



背筋の伸びる考え方だ。でも僕のわずかな経験のなかでもそうとわかることもある。最初は何を言っていたのかわからない生産者の話が、数年後にやっと「そういうことか」と腑に落ちることはある。


一方でこうも思う。「生産者も僕もそしてあなたも、別個の人間だ。だから、すべてをそのままに受け止めてあなたに伝えることなんて、どうせできない」。


たしかにそうかもしれない。物事の受け止め方は人によって違うのが当たり前。松村圭一郎さんは著書「うしろめたさの人類学」のなかで、エチオピアの地方映画館を訪ねたある日のエピソードを紹介している。映画「タイタニック」で豪華客船が沈み人々がばらばらと落ちていくシーンで、大爆笑の渦が起きたそうだ。身近なところでは、お坊さんの念仏を聞いて笑いを堪えられない子どももいる。昔の僕のことだ。


それでも僕は、血の通った物語に対して反応する人間のユニバーサルな感受性を信じてみたい。そのためにはまず、「語り手に見合う自分」にならなくちゃ。


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参考文献

小野和子(著)清水チナツ(編)「あいたくて ききたくて 旅にでる」PUMPQUAKES、2019年

松村圭一郎「うしろめたさの人類学」ミシマ社、2017年

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