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  • 岡村 友章

熊本滞在 1/3 よか茶を作りたかったら茶を摘むな

12月15日から17日夜にかけての熊本県訪問。前半は山都町、そして後半は芦北町に滞在しました。


山都町では、岩永智子さんがお茶を作っています。川鶴釜炒り茶寺上紅茶、そして過去にラインナップにあった山都紅茶の生産者。


今回の訪問は、生産者別に3つの記事に分けて記録に残します。まずは智子さんが縁を繋いでくださり、同町内の菅尾(すげお)共同製茶工場の工場長を務めている小崎孝一(こざきこういち)さんのお話をご紹介しましょう。


お茶づくりの現場を少しでも感じていただけたら幸いです。とくに釜炒り茶を懇意にしてくださっている方、ぜひにご一読を。


(19年春 一番茶期に菅尾の茶工場を訪ねたときのようす)


小崎さんはこの菅尾地域の生まれ育ちですが、一時期は大阪の堺で中学校の教員を務めていたこともある経歴の持ち主。彼の話しぶりは論理的で淀みなく、明瞭で魅力的でした。


小崎家が茶業に乗り出したのは戦後。お父様が地域の営農指導をしていたこともあり、その知識を生かして自宅に茶樹を植えたのがはじまりです。


この地域ではお茶づくりといえば昔から釜炒り製。現在全国的に主流の蒸し製煎茶は、蒸気で茶葉の酸化酵素を失活させ酸化発酵を止めるものですが、釜炒り製は鉄釜の熱により「蒸し炒り」のような環境をつくり酵素反応を止める手法で、煎茶以前から存在します。九州の釜炒り茶は、加藤清正が朝鮮半島から職人を連れてきて製造させたことが原点だと一説にも言うように、もともと国内にあった作り方ではなく、大陸から輸入されました。


小崎家のお茶は当時から矢部の茶商、学校、そして生協などと多くの取引がありました。しかし時代の流れとともに徐々に取引量は減少。その間にペットボトルのお茶も台頭しました。さらには、釜炒り茶の名手だと地元でも名高かったF家が蒸し製煎茶に転換したことは決定打でした。菅尾製茶工場でも「これからは新しいこと、今までとは違うものをつくろう」という気運が高まります。


工場にふたつあった釜炒り茶の製造ラインのうちひとつが煎茶用に作り変えられたのは平成10年のこと。


この地域は伝統的に釜炒り茶の生産地。小崎さんが伝統製法を維持しつつも煎茶づくりに着手しなければならなかったことは、資本主義的な流れに抗うことの難しさを感じさせる残念な出来事であると受け止めてしまいます。しかし、ある意味で一方的ともいえる私の思いとは裏腹に、小崎さんは「新しいことをするのはおもしろいし、蒸しにすることで苦はなかったですよ」と言います。このような生産者の気持ちの機微は、「釜炒りが減っている」という全体の流れを見るだけでは知ることができません。これを知っただけでも価値のある訪問だったと感じます。


余談… 九州といえば、「グリ茶」をご存知の方もいると思います。蒸し製玉緑茶とも呼ばれるグリ茶は、煎茶の製造工程のうちピンと伸びた直線を生み出す「精揉」という工程をあえて省いたお茶で、見かけ上は釜炒り製のような勾玉状。菅尾は、蒸し製のお茶づくりを始めた当初からグリ茶ではなく、精揉工程を経る煎茶を製造しました。近隣の花上地区でもすでに煎茶を製造していたため、これにならってグリ茶は作らないことにしたそうです。


さて現在、小崎家の製造量は煎茶が釜炒り茶を上回ります。しかし私に淹れてくださったのは、釜炒りのお茶。それについて小崎さんは特に説明をしませんでしたが、彼の本心はその1杯に現れているように感じられてなりませんでした。







煎茶(政所・小椋武 作)









釜炒り茶(馬見原・岩永智子 作)







釜炒りのお茶に話を移しましょう。


小崎さんは、釜炒り茶には品種茶ではなく在来種が向いているといいます。在来種はひとつひとつのお茶の遺伝形質が違うため、自然なブレンドを経て多層的な味わいを持ち、またサラっとした飲みやすさもあります。


小崎家が茶業を始めた当初は自園の茶葉量が少なく、よそから生葉を買って製造することもありました。こうした茶葉のなかには、ほぼ手入れされていない畑のものがあり、肥料を使わず、葉も青々とした緑というよりは黄色をしていました。一見して貧弱かと思えるそのようなお茶のなかに、とびきり香りがよく美味しいものがあったと小崎さんは回想します。「肥料を入れると香りを無くすんじゃないかと思います」と彼が語ったことに私は驚きました。今でこそ、肥料由来の強すぎる「旨味」ではなく、香り本位のお茶作りに挑戦する生産者は多くいますが、小崎さんのように早くからこのようなことに気がついていた感覚の持ち主は類稀なのではないでしょうか。あるいは、昔はそんなことは当たり前だったのかもしれません。


小崎さんは、岩永さんのお父様である博さん(故人)と親交が深かったようで、博さんのある言葉を回想します。それは、「よか茶を作りたかったら、茶を摘むな」。


生産性重視の栽培から香りのよいお茶はできないという意味で、小崎さんは「今になってお父さん(博さん)の言葉がよくわかる」と言います。商売としてお茶を作り、市場に流して販売していくためには、ある程度の量はつくらなければならない。そのためには肥料を一定程度使用して茶樹に養分を補給し、年に何度かの摘み取りに耐えられるようにする必要があります。


しかし、近年の審査基準では釜炒り茶でさえも「旨味」や「外観」が重要。昔ながらの外観や香り高さは最重要ではないのです。とはいえ、施肥量が過度になれば香りの発揚を阻害してしまう。※香りやオリジナリティを評価しようとする品評会もあります


おいしいお茶は肥料少なめがいい。しかし市場価格にあわせた生産量で食べていくためには生産性が伴っていなければならず、しかも審査基準もそれに沿ったものになっている。ここに、小崎さんの葛藤があります。


市場で評価され売れるお茶とは例えば、青々とした水色、冴えた緑の茶葉、そしてこってりとした旨味ののった味わいです。ところが釜炒り茶の伝統的な姿とは、水色は黄色で、茶葉はやや白みがかっており、旨味ではなくさっぱりとした香りをたたえたもの。


あるとき小崎さんは、ごく一部のお茶だけは肥料を与えずに育てて販売しました。ところがこのお茶は市場で買われるものではありませんでした。


もちろん、肥料が悪者であるという話ではありません。要はバランスで、たとえば日野の満田さんはぜいたくに油かすなどを施肥してお茶にしっかりと味をのせています。もちろん肥料は、味だけでなく収量も左右します。彼は「無施肥はうちの畑には合わへん」と言います。


小崎さんは33歳でお茶づくりをはじめ、今年70歳になられますので足掛け37年間もお茶をみてこられました。そのなかで、自分がおいしいなと思うお茶と、そして売れるお茶、時代の流れに合ったお茶とのギャップに悩みつつ、少なくとも今日まで釜炒りのお茶を無くさずに存続してこられました。維持することは容易ならず、ただ感服するばかりです。


「さやまかおりなんかを、ちょっと萎凋させて釜炒りにしたら、きっとおいしいだろうと思うんですけどねえ」と小さく仰ったときの、小崎さんの伏した目線が忘れられません。


抑揚は少なめに、とつとつとお話をされる小崎さんだからこそ滲み出る、内面的な思いの強さを感じるような時間でした。彼からお茶づくりを大いに学んでいるという岩永さんも「まだまだ、ごくごく一部しかお話されてないと思いますよ」というとおり、私もきっと再会してたくさんのお話を聞きたいと思います。


70歳でも若手といえるかもしれない菅尾の茶工場。新茶の時期にもし再訪することが叶うなら、駆けつけます。


このあと続く2つの記事では、同じ町内の馬見原にお住まいの岩永智子さん、そして芦北町の梶原敏弘さんのお茶づくりを追います。これから未来に残したい釜炒り茶の姿とはどのようなものか。そして、絶滅危惧種とも言える釜炒り茶を残すために私達は何をすればよいのか。一緒に考えてみませんか。

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