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  • 岡村 友章

農業はひとりでもできる / 益井悦郎さん(静岡・川根本町)



令和3年 4月18日(日)


茶農家・益井悦郎さんにお会いするため、静岡県榛原郡川根本町の青部地区を訪ねた。


益井さんのことは僕が起業する前から飯田辰彦さんの著書で知っており、彼の得意とする発酵系のお茶を取り寄せては、起業前にイベントで淹れていたことがある。京都の「吉田山大茶会」でもお会いし、3年ほど前に静岡を訪問する約束をしていたが急な事情で叶わず、このたび念願を果たすことができた。


今回は益井さんのつくる浅蒸し煎茶が目的の訪問だ。彼の煎茶をひととおり送ってもらったところ、どれも後口が優しく無理がない。香りをぐっと引き出すために熱湯でさっと淹れ、喉元を過ぎてからも胸焼けを起こさず、ひねくれたところのないお茶だった。


そのなかでも光っていたのは、「やぶきた」種シングルオリジンの煎茶だった。きっちりと滋味をキープしたまま2煎、3煎と耐える。このような浅蒸しの煎茶を探していたので、どんぴしゃだった。(このお茶は近日中に販売開始します!)


すぐ益井さんに連絡をした。他のやぶきたとちょっと違うと感じたからだ。改めて益井さんの話を聴きたいと伝え、ご快諾いただくや否や、新幹線のチケットを手配して旅のモードに切り替わった。


会いにいくぞ、と決めたときの心の躍動。これがたまらなく好きだ。



浜松駅で新幹線を降り、金谷駅まで向かい、大井川鐵道に乗り換えた。大井川沿いをどんどんと北上し、比較的規模が小さいと思われる茶畑や地域の茶工場を見遣りながら期待が高まる。益井さんの家の最寄りである青部駅で降りた。


降りた途端に西の空から分厚い雲が流れ込み、さっきまでの晴天が嘘のような雨になった。雨合羽を持っていたので、携帯を濡らさないようにgoogle mapを確認して益井さんの家に向かう。歩いて10分もかからないところにご自宅はあった。


そのあたりは、よくある「富士山を臨む広大な緑の茶畑」といった静岡茶のイメージとは全然違っていて、一区画あたりがさほど大きくない茶畑の点在している静かな農村といった印象だった。


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ここからは益井さんから伺ったお話をもとに、彼のご紹介をしたい。


益井悦郎さんは、ご自身で5代目になる茶農家だ。ご先祖は江戸時代の末期に静岡から青部へ移って、以来お茶をこの土地でつくり続けている。


6人きょうだいの末っ子。もともと実家の農業を継ぐつもりはなく、一生を途上国の農業支援に捧げようと早くから心に決めていたという。子どものころ、兄たちの世代は学生運動などに熱心に取り組む人も多く、悦郎さん自身もその影響を子どもながらに受け、興味関心が途上国支援に結実していった。


悦郎さんは高校を出たのち、アメリカのネブラスカ州で2年間、農業を学んだ。このときに無農薬の作物づくりに触れたが、それが日本ではあまり価値のおかれていない農法であることもまた分かった。その後地元に戻った彼は、さらに2年間農業をした。ところがきょうだいのうち誰も実家の農業を継ごうとする人がいなかったことから、担い手のない茶畑を彼が守ることに。


途上国支援を生涯のテーマに決めていた彼は、実家で就農することを約束し、青年海外協力隊として2年間働くことを決めた。赴任したのはアフリカのセネガル共和国で、彼が目にしたのは換金作物をつくる農業だった。種と肥料と農薬がセットで農家に販売され、作物をつくる。アメリカで無農薬の農業を学んでいた彼は、現地の人々にそのやり方を指導した。


彼の話しぶりは、ガンディーが推し進めたスワデーシ・スワラージの考え方を感じさせた。支配的な海外資本によらず、あくまでも現地の人々が生活の手綱を自らの手にしっかりと持てる住民自治と地域経済。これを目指すべきと、当時の悦郎さんも考えたのではないだろうか。



いまから37年前の1984年、悦郎さんはセネガルから帰国。5代目として茶畑をその手に預かった。


彼は、「つゆひかり」や、独自品種「みらい」が病害虫に対して屈強だったことから、これらを無農薬転換。続いて、病害虫に対して抵抗の弱い「やぶきた」に取り組んだ。ちょっとした偶然からそのヒントを近隣の茶園から得た悦郎さんは、やぶきたも無農薬で栽培する方法を確立。「行政や指導機関の話とは違う手法を実践するのは、みんな不安に思いがちだけれども、そこをがまんして続けられるかが大切です。それに、売れるから無農薬のお茶を作ってるんじゃない。哲学として、そうしているんです」と言う。


そんな悦郎さんの農業について特筆すべきことは、無農薬であることはもちろん、ひとりでできる規模の農業を守っている点だ。


茶業は、ご両親の代で機械化した。その規模は大きくも小さくもない。これが現在でもなんとか継続できている理由のひとつだと彼は言う。20年以上前、地域では共同製茶工場をつくり集約化が図られたが、それでも経営状態は苦しいままだった。効率化を進めるために更に事業規模は大型化されたが、好転していないという。悦郎さんはそもそも大型化に魅力を感じず、個人ですべてを行うことにした。「僕は、3周遅れで最先端ですよ」と笑う彼には、茶業全体の行く末と独自性の必要性が、理屈ではなく直感的に読めていたのではないだろうか。


どの地域でも、またどの農業分野でも後継者が足りていないことは今や誰でも知る事実だろう。だが悦郎さんは悲観することなく、工夫して活路を切り拓く。集約化とは逆方向を向いた。ひとりでお茶を育て、摘み、製茶し、そして売るところまで出来ることを、彼は自らの働き方を通じて伝えようとしている。


「よく『ひとりでやっています』なんて人もいるけれど、実態は家族経営とか共同経営だったりします。僕は、本当にひとりで全部をやっています(ご家族もいらっしゃるが、悦郎さんはひとりでやっている)。そもそも『家族で』なんていう価値観も、もうこの時代にはあまり通用しないんじゃないかと思います。結婚していなくても、親が働けなくなっても続けられる農業っていうのも、あるんですよ。30~40代の担い手にこのことを伝えたい。両親の世代が集約化で苦しい思いをするのを間近で見ていて、本当に続けられるんだろうかと悩む人も多いですから、そのなかで本当にやる気がある人には教えたいと思っています」



今年になって彼が着手したのは、新たな独自品種の育成だ。明治時代の篤農家が残した茶畑から、特色あるものを自ら選抜して挿し木し、育てている。ロマンティックな物語性を帯びたお茶を、悦郎さんは愛おしそうに見つめる。


「5年くらいしたら摘めるかな。これが最後の仕事だろうな」と言う悦郎さん。その視線は自らの人生だけではなく、遠く先を見つめていることが彼の話を聴けばわかる。これまで支配的であった「家族」「みんなで」という価値観を脱ぎ去り、無理のない合理化を柔軟に取り入れつつお茶を守り継ごうと彼は奮闘している。


懐古にとらわれすぎては、本当に大切なことはいったい何であるのかを見落としてしまうかもしれない。悦郎さんの眼差しは明るく、淡々とした語り口にもにじみ出る里への愛情に、僕も元気をおすそ分けしていただく気持ちがした。


再訪を約束し、地元へ帰ったのは日付が変わるころだった。後を追うようにして悦郎さんの煎茶が後日届き、これから皆さんにご紹介するための準備にとりかかる。寒いくらいの爽やかな青部の風の感触はまだ肌に残っている。


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益井悦郎さんからお預かりした浅蒸し煎茶は、『平野原煎茶』の名で近日中にご紹介します。

乞うご期待!

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