- 岡村 友章
いつか流した水が還る
おはようございます。
昨日12月2日、琵琶湖の大津市和邇(わに)漁港で、漁師・駒井健也さんのお手伝いをさせていただきました。そもそもは政所の山形蓮さんが駒井さんの知人で、一緒にどうかとお声掛けくださったのです。
漁なんてしたことがありません。中学生のころ、それこそ琵琶湖でブラックバス釣りをしたり、家族に連れられて海釣りをしたり、といった程度です。
しかし何でも経験できるときにやっておくべき。私は34歳ですが、年齢とともに全く畑違いである物事への積極性が小さくなりそうだという予感があります。そうならないためにも、あまり考えすぎずにとりあえずはやってみることを大切に思っています。
なぜお茶屋が漁に、というのは最後にお話させていただきます。まずは駒井さんの漁のことを。
---
漁は朝6時に始まり午前中に終わるのこと。湖西線の和邇駅までは始発電車でも間に合わないので、前日の夜に駒井さんの自宅に泊まりました。
朝4時半すぎに起床。ごそごそと着替えをして港に向かいます。

だんだんと空が色づいてきました。「白む」という表現がありますが、白というよりは赤や橙がじわじわと広がっていくようです。
この日の漁を手伝いにいらした漁師仲間の方々も合流。漁の概要を説明いただき、船に乗り込んで出発です。このとき朝6時でした。緊張もあり寒さを忘れてしまいます。

駒井さんは大学での学びを終えてから3年間、ここ琵琶湖で研修を受け、そしてこの12月に晴れて独立されたばかり。この時期にねらう魚は、鮎の稚魚である「氷魚(ひうお)」です。
写真は、定置網漁の一種である「エリ」。上空から見れば沖に向かって伸びる矢印のような形をしています。杭と網を組み合わせたエリ漁は、琵琶湖でしか見られないユニークな方法です。
氷魚は夜間に岸に近づき、そして朝に沖合へ出る習性があり、これを利用します。沖に出ていこうとする氷魚はエリの先端にぶつかり、そのまま両端にある「ツボ」と呼ばれる部分に集まります。ツボはいったん入ると魚が出にくい仕組みで、あらかじめ仕掛けられた大きな網を、みんなで引き上げて捕獲するのです。

氷魚だけでなく、藻や他の魚も混じります。これらをうまく選別しながら本船の水槽に移し、生きたままの活魚として港で待つ仲買業者さんに引き渡します。死骸や違う魚種が混じると買い取ってもらえないこともあるといい、たいへんシビアな売り買いゆえ現場は緊迫します。
外来魚であるブラックバスやブルーギルは、魚粉に加工して農業に活かされます。(ブラックバスは食べてもおいしいのですよ!)

これが氷魚です。鮎の養殖業者さんなどへ渡りそこで育てられて食用となったり、鮎の友釣りに使われるオトリ鮎となったりするそうです。(もちろん地元ならでは楽しみで、氷魚を釜揚げして食べることも。シラスのような食感ながらもすでに鮎の風味がしっかり生きており、おいしい!)
駒井さんは研修生時代からすでに有名で、琵琶湖のどの漁港に行っても知っている人がいるのだと、このとき様子を見にいらした滋賀大学の学生さんが仰っていました。きびしい研修を耐え抜いてようやく自分の責任において仕事を始められた駒井さんの熱意に、ただ頭が下がります。
彼のもとにたくさんの人がひっきりなしに様子を見に来ているのがとても印象的でした。この日の漁をご一緒した大津市の消防士Uさん(漁師と兼業)は、前日の夜のうちから駒井さんの家に。ぶつぶつと愉快に文句を言いながら彼の身の回りのことを世話したり、いざ漁となれば体力と経験から鮮やかな働きぶりを見せたりしておられました。漁港でも「今日はなんぼ、かいたんや(どれだけのツボを上げたのか)」「どんだけいわしたんや(どれだけ捕れたのか)」と心配して声をかける人々がたくさん。

琵琶湖の湖岸の風景を守るという彼の気持ちを、皆が後押ししていることが、よく分かりました。
彼の背には比良山系。山と琵琶湖に挟まれたこの地の人々の生活は、そのままに「その狭間でしか生きられない」ことを教えてくれます。
---
最後になりましたが、どうしてお茶屋として今回の漁に参加したいと思ったのかをお話させてください。
誘ってくれた山形さんが暮らす政所は東近江市の山中深くにあり、農薬を使わずお茶を栽培しています。その理由は「自分が嫌だから」というよりは「下流に薬を流したくないから」。どうしてそのような考えが地域で共有されているのだろうと以前から思っていました。
今回、琵琶湖で漁をする人の姿を見て、自分なりの答えが出たのです。何も特別な思想などではなく、「人は循環のなかでしか生きられないことを政所の人はちゃんと分かっているから」です。
命の基本である水は、政所よりもさらに上流で湧き、山中から平野部へ、そして河川の合流を経て琵琶湖へ至ります。瀬田川や琵琶湖疎水から京都大阪を貫き、大阪湾へ。やがて雨や雪となり再び山に戻ります。これを教科書で学んだ知識としてではなく、自然から受けた叡智として政所の人は知っているのだと私は思うのです。
生活のそばにある川の水は、いつか自分たちが流したもの。
今日のご飯を炊く水、畑に降る雨、氷魚の透明な体を満たす湖水、1杯のお茶、そして排泄。すべて水は循環のなかで繋がり合い、自らの体に帰ってきます。たとえ人がどんな浄化システムを作り上げたとしても限りがあるでしょうし、その恩恵を受けられない生き物たちの命が守られなければ、その命をいただく人の営みも結局は続きません。
もし完全な浄化が可能であったとしたら、それはきっと人間が「汚す」ということに抵抗を感じなくなる悪夢のような瞬間なのだろうと、私は思います。

湖西から臨む東には、政所を含む山々が見えています。政所からは愛知川を通じて琵琶湖に水が。同じ方向に日野町もあり、満田さんもそこに暮らしています。満田家のすぐそばには日野川が流れ、日野川も琵琶湖に注ぎます。
彼方に暮らす尊敬する人々の生活が、いま自分のいる巨大な水がめとつながっている。様々な形で自分の体にも、つながっている。排泄や生活用水として流したものは、やがてH2Oとしてだけでなく、より大きな自然環境そのものとして人の生活に帰ってくる。
ここには上下左右も東西南北も、上流も下流もなく、ただ循環があるばかりです。
もちろん私は、農薬を流さないことだけを賛美したいのではありません。現在のところ人間は、農薬に頼らずしては生きられない仕組みを自らが作り上げ、ほとんどの人がその恩恵にあずかっています。
そのことを受け止めながら、どんな形であれ食べ物の生産に携わっている人の営みに感謝することから改めてスタートしたいと思います。そしてできるだけ多くの人が、必ずしも理想の通用しないきびしい生産現場の空気を知ることで、ひとりひとりが「なぜ」と考え始め、それぞれの望む世界の形にむけて主体的に動き始めること。それしかないのだと私は思います。
自分自身の仕事のあり方もまた、現場をとにかく見続けること、それをできるだけそのまま言葉にして伝えることでしか形になりません。もちろん、お茶屋としてお茶をみる眼識が必要なのは言うまでもありませんが、物事の大きな流れを読みながら自分の専門性と付き合っていくことを改めて大切にしなければと心新たにする一日でした。